2009年07月04日
混沌と、
読んでいくうちになってしまう本というものがあります。
人間はすっきりしなものが正直嫌いな気がします。
だから、ハッピーエンドというフィナーレが好きな人間が多いのです。
人生にハッピーエンドと言って終われる人なんていうものは
どれくらいいるのか検討もつきませんが。。。
今日の本は第132回 芥川賞を受賞した
【本への挑戦】
・どのような世界構造がされているか
という視点で進んで行きたいと思います。
それでは 288冊目「グランド・フィナーレ」について、
一緒にいきましょう。
読んでいくうちになってしまう本というものがあります。
人間はすっきりしなものが正直嫌いな気がします。
だから、ハッピーエンドというフィナーレが好きな人間が多いのです。
人生にハッピーエンドと言って終われる人なんていうものは
どれくらいいるのか検討もつきませんが。。。
今日の本は第132回 芥川賞を受賞した
【本への挑戦】
・どのような世界構造がされているか
という視点で進んで行きたいと思います。
それでは 288冊目「グランド・フィナーレ」について、
一緒にいきましょう。
【目次】
【書感】
「きもちわるい」
本書を読後
僕が感じた感想がこれ。
こんな感じになることってなかなか無いのだけれども
そこには人間の狂気がとても感じられるのだ。
物語の主人公は一人娘を持っていた
離婚した父親
最初は何の変哲もないように物語が綴られていく。
文章がとても綺麗でスラスラ読めてしまう。
が、話が進むにつれ
「なにか」がおかしくなっていくのがひしひし伝わってくる
娘に対する
「狂気」
それがひしひしと。
最初はそのなにかが「愛情」だとも
感じ取れるのだが
そんな、優しいものではない。
「狂気」がひしひしと伝わってくるのだ
文章を通して。
そういった表現力がこの
「グランド・フィナーレ」という物語の凄みなのかもしれない。
その狂気の理由は1章を読み進めれば伝わる。
単刀直入にいうと
「ロリコン」「児童ポルノ」
少女の写真を集めるならぎりぎり許されるが
「裸」の写真をハードディスクが一杯になるまで
保存しまくっているのだ。
この部分は僕は擁護できないし
多分一般的にみたら擁護しちゃいけない部分だろ。
身勝手な大人のせいで
少女の未来を費やしていくのだから
まぁ、狂気の理由がそこにあるのかもしれない。
何を好きになるというは個人の自由だけれども。
表立てない趣味を持つ人なんていうのは結構いると思う。
で、そこを理解できないという反応は別に普通だと
感じるし、こうやって読書の感想をweb上に晒している
なんてことに嫌悪感を憶える人もひょっとするといるかもしれない。
表現も一歩間違えば
「狂気」に変わっていく。
この父親から娘への想いは
「愛情」には変わりないことなのだが
「愛」と「狂気」の狭間というものは非常に難しく
それは一方的だから感じるのかもしれない
父親である「わたし」の目線
自分のことしか考えていない「わたし」
乖離な状態だからこそ
一方的な「愛」で「狂気」になってしまうのではないだろうか
後半では田舎に帰った主人公が
二人の少女の為に舞台の手伝いをするのだが
もう、前半に植えつけられた
「ロリコン」という属性がついてしまっているので
ここは改心して、なんて言葉がなかなか見つからないし
相変わらず、自己の思うがまま話が進んでいくから。
なんでこの物語が芥川賞を受賞する評価というものを得られたか
ある種、常人には理解できない世界
そういう世界を表現するということは一種の芸術で
本当に世界が緻密に創られている。
創られているというよりは
「阿部和重」という人が意図的に創っている
のが正解なのかもしれない。
まぁ、よくわからない
これが答えで充分なのかなと思う。
人は安易に答えを出したがるから。
終わりという幕が下りて
また物語りは始まる。
他の短編を読んで
「わたし」が主人公ではなく
「神町」が主人公なのだと考えを改めた。
「阿部和重」の「神町」という世界に
触れるきっかけには入りやすい作品だと思う。
【経験知】
・一人称も大切だけれど限界が見える
人は一人だけれども、やっぱり一人では生きていけない。
どこか心の拠り所、自分の成すべきことというものを見つけるために進んでいかなくては
いけないのかなと
【後記】
物語を読むの実は意外と好きだなと感じる。
ビジネス書というものではないけれども
ちょっと視点を変えれば、実はそこは宝の宝庫
「反面教師」になったり自分を創る言葉があったり
偏った能力特化も大切だけれども
いろいろな世界と触れ合って研ぎ澄まされるものも
あるのかな。

今日もお付き合いありがとうございました。
Presented by hiro
ブログトップへ戻る
グランド・フィナーレ
馬小屋の乙女
新宿ヨドバシカメラ
20世紀
【書感】
「きもちわるい」
本書を読後
僕が感じた感想がこれ。
こんな感じになることってなかなか無いのだけれども
そこには人間の狂気がとても感じられるのだ。
物語の主人公は一人娘を持っていた
離婚した父親
最初は何の変哲もないように物語が綴られていく。
文章がとても綺麗でスラスラ読めてしまう。
が、話が進むにつれ
「なにか」がおかしくなっていくのがひしひし伝わってくる
娘に対する
「狂気」
それがひしひしと。
最初はそのなにかが「愛情」だとも
感じ取れるのだが
そんな、優しいものではない。
「狂気」がひしひしと伝わってくるのだ
文章を通して。
そういった表現力がこの
「グランド・フィナーレ」という物語の凄みなのかもしれない。
その狂気の理由は1章を読み進めれば伝わる。
単刀直入にいうと
「ロリコン」「児童ポルノ」
少女の写真を集めるならぎりぎり許されるが
「裸」の写真をハードディスクが一杯になるまで
保存しまくっているのだ。
この部分は僕は擁護できないし
多分一般的にみたら擁護しちゃいけない部分だろ。
身勝手な大人のせいで
少女の未来を費やしていくのだから
まぁ、狂気の理由がそこにあるのかもしれない。
何を好きになるというは個人の自由だけれども。
表立てない趣味を持つ人なんていうのは結構いると思う。
で、そこを理解できないという反応は別に普通だと
感じるし、こうやって読書の感想をweb上に晒している
なんてことに嫌悪感を憶える人もひょっとするといるかもしれない。
表現も一歩間違えば
「狂気」に変わっていく。
この父親から娘への想いは
「愛情」には変わりないことなのだが
「愛」と「狂気」の狭間というものは非常に難しく
それは一方的だから感じるのかもしれない
父親である「わたし」の目線
自分のことしか考えていない「わたし」
乖離な状態だからこそ
一方的な「愛」で「狂気」になってしまうのではないだろうか
後半では田舎に帰った主人公が
二人の少女の為に舞台の手伝いをするのだが
もう、前半に植えつけられた
「ロリコン」という属性がついてしまっているので
ここは改心して、なんて言葉がなかなか見つからないし
相変わらず、自己の思うがまま話が進んでいくから。
なんでこの物語が芥川賞を受賞する評価というものを得られたか
ある種、常人には理解できない世界
そういう世界を表現するということは一種の芸術で
本当に世界が緻密に創られている。
創られているというよりは
「阿部和重」という人が意図的に創っている
のが正解なのかもしれない。
まぁ、よくわからない
これが答えで充分なのかなと思う。
人は安易に答えを出したがるから。
終わりという幕が下りて
また物語りは始まる。
他の短編を読んで
「わたし」が主人公ではなく
「神町」が主人公なのだと考えを改めた。
「阿部和重」の「神町」という世界に
触れるきっかけには入りやすい作品だと思う。
【経験知】
・一人称も大切だけれど限界が見える
人は一人だけれども、やっぱり一人では生きていけない。
どこか心の拠り所、自分の成すべきことというものを見つけるために進んでいかなくては
いけないのかなと
【後記】
物語を読むの実は意外と好きだなと感じる。
ビジネス書というものではないけれども
ちょっと視点を変えれば、実はそこは宝の宝庫
「反面教師」になったり自分を創る言葉があったり
偏った能力特化も大切だけれども
いろいろな世界と触れ合って研ぎ澄まされるものも
あるのかな。

今日もお付き合いありがとうございました。
Presented by hiro
ブログトップへ戻る